川中島古戦場

 前の道路はしょっちゅう通るのに、今まで1度しか寄り道したことのない川中島古戦場へ、カミさんが行きたいというので一緒についていった。目の前がバス停なので、公共交通機関でのアクセスはいい。僕は桜を期待てして行ったのだが、花をつけていたのはわずかに1本だけだった。

 地元の人は八幡原(はちまんぱら)と呼ぶ川中島古戦場は、別名八幡原史跡公園だ。川中島も八幡原も地名なのだが、どうして2つ呼び名があるのかよそ者の僕にはよくわからない。多分、八幡原はこの場所だけ、川中島はもっと広い地域をさすのではないだろうか思っている。

 川中島で戦ったのは、上杉謙信と武田信玄。このあたりで5度戦っている。そのうち、もっとも激戦だったと言われる第4次川中島の戦いで武田信玄がここ八幡原に本陣を構えた。だから、ここに謙信と信玄の一騎打ちの像が建っている。また、なぜか地元松代の幕末の兵学者、佐久間象山の像もある。公園として整備され、周囲には桜が植えられており、桜の名所でもある。長野市立博物館があり、プラネタリウムがある場所として地元でも有名だ。

 桜は期待外れだったので、長野市立博物館に寄り道した。ここで、今まで知らなかった長野市の歴史や、駅前にある如是姫像のことなどを学ぶことができてとてもよかった。
▲わずかに花をつけた桜

▲わずかに花をつけた桜

▲長野市立博物館。池の向こうに見えるのが多分桜の木

▲長野市立博物館。池の向こうに見えるのが多分桜の木

▲これが謙信と信玄の一騎打ちの像

▲これが謙信と信玄の一騎打ちの像

▲第4次川中島の戦いの陣形図

▲第4次川中島の戦いの陣形図

▲一騎打ちの像があるのは、八幡社という神社の境内。戦いの逸話がいくつも残っている

▲一騎打ちの像があるのは、八幡社という神社の境内。戦いの逸話がいくつも残っている

 以下、八幡社に掲示されていた案内板の内容だ。

八幡社御由緒
祭神の誉田別尊(ほんだわけのみこと)は第十五代応神天皇の諱(いみな)で神功皇后を母とし在位四十一年に亘り大陸の文化を積極的に取り入れられ、古代日本の文化の向上、国家の発展に尽くされた御功績が仰がれ皇室の崇敬する神であるばかりでなく源氏一族をはじめ武人の神、弓矢八幡と称して全国各地へ勧請(かんじょう)され、開拓の守護神、農耕地としても信仰さてました。
当社においても平安中期、源顕清が信濃の国に流された時、この地を訪れ広大な景勝の原野に武運長久を祈り八幡大神(誉田別尊)をご神木の大欅に包まれる鞘堂内のご神殿に祀られたことから、この原野一帯を八幡原と名づけました。
川中島合戦で破壊された神殿を信玄は、高坂弾正に命じて社殿を再建させ、その後松代藩真田家が明治維新まで代々祭祀、修繕の管理運営をされました。
現在は明治四十一年に建御名方命(諏訪大社の祭神)が合祀され、その御神徳は、必勝、厄除、交通安全、安産、育児などであります。
川中島古戦場八幡原
川中島合戦は今から四百年前、天文二十二年より永禄十一年に至る十三年の長きに亘って行はれたが、後世広く伝えられている川中島合戦は永禄四年の戦いを指している。
この戦いは越後の雄将上杉謙信、甲斐の智将武田信玄がこの川中島に雌雄を決せん武田勢は八幡原に、上杉勢は妻女山に陣をとり、両軍併せて三万三千余、九月十日未明の霧深い中で信玄の「鶴翼」の配備と謙信の「車懸」の攻撃で双方死斗を盡し、この八幡原は大修羅場と化した。
その中にあって、謙信は只一騎愛刀「小豆長光」を振りかざし武田の本陣に切り込み不意を突かれた信玄は軍配で謙信の太刀を受けたという有名な「三太刀七太刀」も此の所である。時に信玄四十一才、謙信三十二才であった。
この戦いで死傷者七千を数え史上最大の激戦で両将の決戦場ここ八幡原に現存する土盛りの跡は、武田本陣桝形陣地で当時の一部を物語っている。
両将の戦術は幾多の戦術研究の指針とし現代戦にも多く応用されたと聞く。
武田の居城海津城は東南四粁の松代に、また頼山陽の「鞭声粛々夜渡河」で有名な雨宮渡は東側を流れる千曲川の上流約六粁の地点である。